何回か会っただけだけど、ずっと気になる人、というのは誰にもいると思う。僕の場合、言葉や物腰にキラッとしたものを持っている人が気になる事が多い。ピカピカ・ギラギラとした感じではなく、クリスタルが輝くようにヒヤッとして少し鋭いけど痛くない感じ。この記事を書いたフラニーさんもそんな「気になる人」の1人だ。
この記事のテーマである「良質なコミュニティとは何か?」というのは難しい問題だ。対義語に「良質でないコミュニティ」があるのは間違いなく、こちらの方は比較的簡単にイメージできるので不思議だ。まずは記事を読んで欲しい。
https://note.mu/amrita16/n/n47f28d4484b6
SNSのおかげで今ではだいぶ自分と価値観の似た人と繋がりやすくなった。
誰かを選ぶことがことが誰かを排除することになっていないか…
誰か排除する事で成り立つコミュニティが「良質」であるかは、なんとも言えないが、心地よいのは確かだろう。
僕はこの記事を読んで、城南海という歌手の「アイツムギ」という歌を思い出した。作詞は「夜空ノムコウ」の川村結花だ。
ちょっとだけ歌詞を引用する。
高い枝を 見上げるあまり
足下の花を 踏んでないか
誰かにとって 大事なものを
はかりにかけて 汚してないか
シェアハウスに限らず、どこのコミュニティにも居場所がない、あるいは最初は受け入れてもらえても、粗相をしていつも居場所を失ってしまう人というのは、一定数いる。無料低額宿泊所という存在を僕はこの記事で初めて知ったけど、そういう人に居場所を提供するというのは、とてもすごい事だ。
気になったので、少し調べてみた。この施設を運営している抱樸(ほうぼく)というNPO法人は、ハウスレスとホームレスと区別して考えているという。WikiPediaから引用。
物理的困窮をハウスレス、関係の困窮をホームレスと呼び分けている。
「屋根の下」に入ること(ハウスレスからの脱却)のみではホームレスから脱却した事にはならないと捉え、関係の困窮の解消(ホームの回復)までを目的として掲げて(いる)。
要するにハウスレスから脱却しただけだと、またどこかでやらかして転落していってしまう、という考えだ。これはまさに正鵠を射ていると思う。そして、そういう施設だから当然吹き溜まりになっている。「最終的な受け皿」とはまさにこの事だ。
でも、そんなところにも「最高なコミュニティ」があるのだという。なんだか映画「万引き家族」みたいな話だなと思った。どんな場所でも人は隣人を愛せるし、なんとかなるのかもしれない。そして「良質」イコール「最高」ではないのだな、と。良質を超える最高があるのなら、それを目指したいよね、と僕は思う。